もう昔のことになるが、
先を急いで歩いていた時、前を歩いている女性を追い抜こうとした。
だが、私が行こうとする方向へ前の女性も移動するのでなかなか追い越せず、
右へ左へとうろうろすることがあった。
そんなことをしているうち、
前を歩いていた女性が急に後ろを振り返り、
ヒステリックに叫んだ。
「あなたっ!いったい何がしたいのよ!」
私は一瞬あっけにとられてしまったが、
「急いでいるんですけど。」
と静かに答えた。
すると女性は、
「それならさっさと先へ行ったらいいじゃないの!」
と叫んで私を睨みつけながら道を開けてくれた。
ロシアの女性はときどきひどくヒステリックになる。
たぶん私がアジア人で、身なりもよく見えなかったから、
彼女のバックをひったくろうとしているとでも思ったのだろう。
そのことを主人に話すと。
そういう時は、大きな声で、トーンを荒げて、
「通り抜けたいのよ!」って言わなくちゃ。
と教えてくれた。
このようにロシア語では、声のトーンが物事を決める。
どんなに丁寧な言い回しでも、
声のトーンによっては受け取り方も違ってくる。
日本で習ったロシア語では、丁寧な言い回しばかりを教わった。
モスクワに住むようになって、
丁寧な言い回しばかりではやっていけないことがわかった。
ときには必要な単語と動詞だけで、
すごみをきかせて答えることも覚えたほうがよい。
自分の主張をはっきりさせないと、
ここロシアでは嫌な思いをすることになる。
そう思っていたある日、
今は亡き主人の母を車いすに乗せて主人と3人で近くの役場へ出かけた。
役場では、主人が母の年金のことで書類を調べている間、
私たちは外で待っていた。
するとやはり誰かを外で待っていた裕福そうなロシア人女性が
私に笑顔で話しかけてきた。
「あなたどこから手伝いに来ているの?
車いすの老人の面倒を見るのは一体いくらかかるのかしら?」
ときかれた。
女性は私のことを中央アジアから来たお手伝いさんと思ったのだ。
私は思わずムッとして、
「日本から来た嫁です。」
とぶすっとして答えた。
女性の態度は突然変わって、困ったような笑顔で、
「まぁ日本・・から・・お母様を面倒見てらっしゃるの。大変ね〜。」
と、しどろもどろにお世辞らしきことを言った。
私は口の端でヘッと笑って、
「失礼します。」
と言って母の車いすを押しながら彼女から遠のいた。
いつものように
日本人と思われなかったことは腹立たしかったのだが、
礼儀知らずの女性に、
一言すごみを効かすことができたのが
何だかものすごく嬉しかった。